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村上春樹と中国(その2) [村上春樹]

 イルカくんです、こんにちは。

 さて、前回の続きです。
 藤井先生の小論文、「村上春樹のなかの中国を読む」の第2回目(『UP』6月号)は、このような題となっています。

  「中国」への背信と原罪−−「中国行きのスロウ・ボート」論

 村上作品の中国語版は、台北・香港・中国の三版が存在しているそうですが、短篇「中国行きのスロウ・ボート」は各版で内容が時に大きく異なっているそうです。熱心な読者がそれに気づき、版本比較がネット上で大いに話題になった、ということです。いったい、なぜ、そんな違いがあるのか。それは、それぞれの翻訳書が底本にした原著が異なっているということにあります。

 つまり、「中国行きのスロウ・ボート」の原作には、三つのバージョンがあったのです。一つは、最初に発表された、文芸誌『海』の1980年4月号のバージョン。その次は、1983年の短編集『中国行きのスロウ・ボート』に収録するために書き換えられたバージョン。そして、1990年の『村上春樹全作品1979〜1989』第3巻に収録される際に大きく修正されたバージョン、の三つです。

 藤井論文では、これらの内容の異同をかなり詳しくチェックして、春樹の二度にわたる大幅な書き換えの意味を解析しているんですけれど、単行本でしか村上作品を読んでいなかったイルカくんは、がく然としてしまいました。不覚にも『全作品』版をノー・チェックだったとは……。近々、なんとか『全作品』を手に入れたい!と、メラメラと燃えています。(これって、追っかけですか。くわばらくわばら)

 とにかく、中国に対する「僕」の原罪意識が、書き換えによって深まったり削除されたり、ということのようです。連載第2回の最後に、藤井氏は次のように書き、締めくくります。

「村上春樹が一九八〇年の初出誌から一九九〇年の全作品版に至るまで「中国行き……」に二度の改稿を施して得たものは、「僕にしか読み取れない」「あまりにも遠い」中国であった。しかしこの諦観とは「僕」が「過去」を友とし、背信と原罪とをより深く自覚することにより到達した、旅立ちのための港であった。」(35頁)

 この「旅立ちのための港」という意味深な表現は、次の第三回につながっていくんですけれど、それについては、また次回に!


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村上春樹と中国(その1) [村上春樹]

 イルカくんです、こんにちは。

 じつは先日、ふとしたことから、〈村上春樹と中国〉をテーマにした小論文を見つけまして、心臓が飛び出そうになりました。というのは、イルカくんが前に書いた「国境を越える村上春樹、あるいは日中関係の巻」にも通ずる話が載っていたからです。その小論文とは、『UP』(東京大学出版会)の5〜7月号に連載された、藤井省三「村上春樹のなかの中国を読む」です。

 著者の藤井省三さんは、東京大学文学部の先生で、中国近現代文学の研究者でいらっしゃいます。多くの著作を発表しておられますが、イルカくんが読んだことのあるのは、『魯迅「故郷」の読書史−−近代中国の文学空間』(1997年、創文社)だけです。名作『故郷』が、変動する近代中国において、いろんな立場の人からいろいろに解釈され、それぞれに利用されてきたんだという本で、けっこうおもしろかった記憶があります。(詳細は、忘却の彼方……)

 それにしても、なぜ、中国文学ご専門の大学の先生が、日本の売れっ子現代作家のことを書いたりするのか。それは一つには、それほどまでに村上が中国で読まれている、という事情があるようです。藤井先生は、別の著作『20世紀の中国文学』(2005年、放送大学教育振興会)の第15章「村上春樹と中国語圏−−日本文学が国境を越える時」のなかで、1989年の台北における『ノルウェイの森』の翻訳刊行に始まり、十年間で台湾→香港→上海・北京と、東アジアを時計回りにして村上の翻訳が出版されていった様子を、海賊版の事情も含め、まとめています。

 同書によれば、2003年7月には『海辺のカフカ』が上海で文芸書ベスト1になり、『ノルウェイの森』もベスト10となっていて、「村上はもはや『外国』という形容を外して、中国語圏で最も読まれている文芸書、と言っても過言ではあるまい」。台湾では「非常村上(すっごくムラカミ)」という流行語まで生まれたというから、スゴイです。たじたじです。春樹はアメリカに行ったりドイツに行ったり、欧米中心にプロモーション活動をしているようだし、日本のマスコミもどっちかっていうと欧米での評価のほうを大々的に取り上げがちなんで、中国語圏での村上ブームなんて、ちょっと知らなかったですよね。

 藤井先生の連載第1回は、「転倒した恋愛「童話」ーー「シドニーのグリーン・ストリート」論」です。イルカくんは、世にあまたある村上春樹論には興味なかったんですけれど、藤井論文だけは別格だと思い、さっそく読んでみました。

 これは、短篇集『中国行きのスロウ・ボート』に収められた「シドニーのグリーン・ストリート」が、そもそもは童話として書かれたものであって、そこには春樹の表現されない願望が示唆されている、というものです。すなわち、春樹は、「僕」と中国系女性「ちゃーりー」との恋愛を、童話としてしか書けなかったのだ、でも本当は小説として中国系女性との恋愛を書きたい、それなのにそれを認めたくない。こういう転倒した願望、中国への屈折した思いを、この短篇は示唆しているんじゃないか、ということです。

 ちょっと、ポスト構造主義っぽいかなって感じで、いかようにでも言おうと思えば言えちゃうような話の展開なんですけれど、でもけっこう説得力ありました。連載の第2回と第3回にもかなり参考になる、もっと面白い話がありますので、それはまた次回に!


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「これぞ村上文学!」の巻。 [村上春樹]

 イルカくんです、こんにちは。

 「これぞ村上文学!」というお題は、本ブログ初の記念すべきコメント第一号を下さった閑居堂さんから頂きました。すなわち、これから村上春樹を読んでみようという人に向けて、「これぞ村上文学!」とすすめられる一作品を挙げよ(それが任務じゃ)、という至極もっともな要請です。いやぁ、これって、考えるとけっこう難しいもんです。イルカくんの好き嫌いで100パーセント決めつけちゃってもいけないし、一般的な評価を言ってもしょうがないですし、……。難問だなぁ。ブツブツ。

 それで、ごく、ありきたりの答えになってしまうかもしれませんが、いま選ぶとしたら、三つになっちゃいますが、『ノルウェイの森』(講談社、1987年)、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、1985年)、そして『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社、1994−95年)をおすすめします。ただし、じつは三つとも、今回の読破計画を始める前にすでに読んでいたものなんです。だから、イルカくんの記憶の中で評価が確立しているだけのことで、たとえばつい二カ月前に読んだ『海辺のカフカ』(新潮社、2002年)なんかは、ただ単に自分の中でまだこなれていないだけ、ということかもしれないです。

 そんなこんなで、もちろんイルカくんの個人的なオススメなんですけれど、春樹自身はどう思ってるのかなぁと見てみると、『そうだ、村上さんに聞いてみよう』(朝日新聞社、2000年)では、この三つが自分にとっていちばん大きな意味を持つ作品だ、と書いています。この大きな意味というのは、対談『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店、1996年)で詳しく語られていて、要約するとだいたい次のようなことです。

 ある日突然「そうだ、小説を書こう」と思って書き始めた時、自分の中から出てきた文章はアフォリズムやデタッチメントであった。それから、それを徐々に物語に置き換えていって、『羊をめぐる冒険』ができた。さらに物語はどんどん長くなっていき、『世界の終わり』まで来た。その後、もう一段大きくなるためにリアリズムの文体を身につけようと思い、書いたのが『ノルウェイ』である。こうして、物語を語るということが自分にとっての第二ステップであった。そして第三ステップと言える転換点が『ねじまき鳥』であり、そこには、コミットメント(人と人との関わり合い)ということが関わっている。「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、そういうようなコミットメントのあり方に自分は惹かれる。(新潮文庫版、80−84頁)

 『ねじまき鳥』については、さらに次のように語っています。「いまの日本の社会が、戦争が終わって、いろいろつくり直されても、本質的には何も変わっていない。それがぼくが『ねじまき鳥』のなかで、ノモンハンを書きたかったひとつの理由でもあるのです。自分とは何かということをずっとさかのぼっていくと、社会と歴史ということの全体の洗い直しに行き着かざるをえない」(同、72頁)。

 こういう村上春樹の問題意識、つまり個と個の関係、個と社会の関係への意識は他の作品にも色濃く感じられて、それっていったい春樹にとって何なんだろうとイルカくんは気になっていて、それを「春樹と全共闘世代」というテーマで考えられるんじゃないかと思っているわけです。ということで、やっぱり『ねじまき鳥』は村上作品の中で大きな位置を占めていると思います。

 それと、『世界の終わり』と『ノルウェイ』については、春樹による簡単な読者分析があって、それによると、村上の読者はおおよそ〈非リアリズム=象徴派〉の流れと〈リアリズム=叙情派〉の流れに分かれていて、『世界の終わり』は主に前者に支持され、『ノルウェイ』は主に後者に支持されているらしいです。ただ、春樹自身にとっては、この二冊の本はまったく別のスタイルで書かれた別の話であるけれど、ほとんど同じことを語っているんだ、ということです(『そうだ、村上さんに聞いてみよう』)。

 ところで、中ザワヒデキという人の『近代美術史テキスト−−印象派からポスト・ヘタうま・イラストレーションまで』(トムズボックス、1989年)という、全部手書きの小さな本があるんですけれど(下の写真参照)、そこでひと言だけ、『世界の終わり』が紹介されています。曰く、「『世界の終わり』は完結したシアワセな世界が死と同義であることを図式的に証明した純文学です」。昔、このよく分からない言葉に惹かれて『世界の終わり』を読んだんですけれど、今ではほとんど筋を忘れてしまいました。かなりおもしろかったという記憶だけで、おすすめする作品です。ちなみに『世界の終わり』は、村上の幻の三作目『街とその不確かな壁』の流れを継承して出来た物語です。

 最後に、『ノルウェイ』にふれなくてはなりません。ここまであれこれ書いてきて、今更なんなんですけれど、三つの小説のうち、どうしても一つを選ばなければいけないとしたら、結局イルカくんは『ノルウェイ』を選んでしまうんではないか、という気がして怖いです。なぜか。それは、イルカくんがこの作品を好きだからではなく、その逆で、はっきり言って嫌いだからです。この小説の持つ、人を揺さぶってくる感じが嫌いなんだと思うんです。読み手にリアルに迫ってくるというところが。そういう意味では本当によくできた小説なんだと思います。

↓全42頁だけどスゴイ奴。


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春樹における翻訳の意味、そしてカーヴァーの話。 [村上春樹]

 イルカくんです、こんにちは。

 大上段に「村上春樹を発行順に読破する」と言っているけれど、果たしてこのイルカという野郎はどこまで読んだというのだ?と、疑いの念を抱く方もおられることと思います。

 お答えします。イルカくんは現在、『海辺のカフカ』(新潮社、2002年)を読了して以降、つぎの『バースデイ・ストーリーズ』(訳書、中央公論新社、2002年)に入る手前で、ちょっと休憩しているところです。すなわち、2002年までは来ているわけで、読破まであとちょっとです。お名残りおしいので休憩している、といった感じ。

 さて、村上春樹における小説と翻訳の関係については、本人がたびたびエッセイに書いているので、よく知られていることと思います。曰く、小説執筆のあいまに、余暇として自分の好きな作品を少しずつ翻訳している、とのこと。一日のスケジュールとしては、朝3〜4時に起床して午前中は小説の執筆、午後は翻訳、そして夜9時ごろには就寝、が大まかなところらしいです。その翻訳の仕事に関して重要なことは、出版社からの頼まれ仕事ではなく、自分で本当に訳したい、翻訳を通して何かを学び取りたいと思える作品を選んで訳しているということです(『翻訳夜話』共著、文春新書、2000年)。つまり、村上春樹の翻訳本というのは、彼の活動全体を考えるうえで、けっこう大事な位置を占めているんです。前にこのブログに書いた『アンダーグラウンド』の話も、そういうところから連想してみたものです。

 そこで、たとえば、春樹の訳業のなかでもっとも功績のある仕事は何だろうと考えてみると、いちばん先に思い浮かぶのはやはりレイモンド・カーヴァー(1938-88年)の翻訳です。イルカくんは、村上読破を始めてもっとも収穫だったのはカーヴァーに出会ったことだ、と思っているくらいです。大昔、兄の本棚でみかけて以来、三十路も半ば近くになるまで手に取ることもなかったんですけれど。

 日本語版全集もすべて春樹が訳していることを思えば、春樹自身の中でもカーヴァーは特別な存在だと思うんです。『翻訳夜話』では、80年代アメリカ文学のなかではカーヴァー、ジョン・アーヴィング、ティム・オブライエンの三人から少しでも何かを学びたいと、三人を並列して語ってるんですけれど、イルカくんは春樹はカーヴァーといちばん、文学的にも人間的にも親密になれたんではないかと思います。

 そんな親密さがありながらも、カーヴァーの作家としての自立性に疑問を投げかけた記事、「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか?」をみずから翻訳し日本に紹介しているという事実に、イルカくんは村上春樹の、文学に対する公平性を感じて、素直に感服しちゃう部分があります。親密なんだけど、冷静さを失っていない、というところが。
 
 この記事は、D・T・マックス氏によって1998年にニューヨークで書かれたもので、村上編・訳『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』(中央公論新社、2000年)に収録されています。内容は、カーヴァーの初期作品に編集者リッシュが大幅に手を入れているという事実が資料から発覚したこと、そして、同じく作家である奥さんのテス・ギャラガーもカーヴァーに対してリッシュと似たような「協力」を行なっていたかもしれないという疑念が浮上していること、の2点です。

 訳とともに記事に対する村上のコメントが付いているんですけれど、彼はカーヴァー・ファンとしてこの記事を頭から拒絶するのではなく、正当に評価しながらも、そうした事実はカーヴァー作品の価値を貶めることになるのか?と真摯に問うています。イルカくんは思うんですけれど、とくにサラリーマン生活をとおして感じるんですけれど、カーヴァーのようなアメリカを代表する作家およびその奥さんと仕事上友好的な関係を持っていたとしたら、その人間関係を維持するために、その人たちに都合が悪そうなことにはあえて触れない、というのが普通われわれがとる態度のような気がします。正直言って。だから春樹はえらいよな……。うん。

 ちなみに、春樹のこうした、いわばアンチ・サラリーマン根性って、全共闘世代で、大学卒業後どんな組織にも所属してこなかった経歴が大きいな、と思うんですが、それはまたいずれかの機会に。

月曜日は最悪だとみんなは言うけれど

月曜日は最悪だとみんなは言うけれど

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2000/05
  • メディア: 単行本


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昔の「春樹」に会いたいか?の巻。 [村上春樹]

 イルカくんです、こんにちは。

 職場の同僚に、『AERA』に村上春樹のことが載ってるよ、と教えられ、さっそく見てみました。「昔の『春樹』に会いたいーー『ノルウェイの森』以前を繰り返し読む心理」(2006/6/5号)。昔の作品を読み返す人たち(主には村上と同世代の読者)を取材した記事です。

 記事に曰く、「近年の村上春樹は、『海辺のカフカ』などの話題作を発表する一方で、オウム真理教のサリン事件に取り組んだ『アンダーグラウンド』や阪神・淡路大震災の影響が色濃い『神の子どもたちはみな踊る』などの異色作でファンを驚かせてきた。世界的な作家に成長し、ノーベル賞受賞も遠くないといわれる。しかし、新境地を開くほどに、かつて読んだ初期作品から離れていってしまうような寂しさを持つ人々も多い。」

 イルカくんは、好き嫌いというパラダイムを捨てて、ただ単純に発行順に村上作品を読んでいるんですけれど、順番に読んでくると、作品の変化にそれほど違和感を覚えません。つまり、変化していることは感じるけれど、その変化自体(変化の方向性みたいなもの)には一貫したものを感じています。たとえば、『AERA』の記事でも取り上げられている『アンダーグラウンド』(1997年、講談社)は、初期の著作しか知らなければ唐突な感じを抱くかもしれないですが、じつは春樹の中では突飛なことではないのだと思います。

 それは、一つには春樹が高校時代からトルーマン・カポーティを読んできたこと。それからのちにカポーティを翻訳していることがあります。春樹が訳しているのは少年時代を描いた自伝的短編ですが、殺人犯を取材したノンフィクション『冷血』はカポーティの主著の一つとして有名です。また一つには、『心臓を貫かれて』(マイケル・ギルモア著、1996年、文藝春秋)というノンフィクションを翻訳したこと。この本は、死刑囚の弟である著者が自分たちの家族の歴史をたどって、兄が残虐な殺人を犯した原因はどこにあるのだろうかということを探った凄まじい本です。著者自身、自分の中にも兄と同じような残虐性が知らないうちに存在しているのかもしれないという恐れを抱きながら書いていて、読んでいるこちらも怖くなってきます。

 だから、村上自身もきっと、いつかノンフィクションに挑戦をしたいと思っていたのではないかと、勝手に想像してしまうんです。では、なぜその素材がサリン事件だったのか、という点については、イルカくんは、学生運動世代としての春樹のもつ社会観が深く関係していると思うんですけれど、「学生運動と村上春樹」はまた大きなテーマなので次の機会に書きたいと思います。

 いずれにしても、この『AERA』の記事にあるように、作風が変わったのはなぜだ、初期の作品の方が好きだ、という読者はやっぱり多いみたいです。ネットに寄せられた読者の疑問に本人が答える形式のエッセイ、『そうだ、村上さんに聞いてみよう』(2000年、朝日新聞社)でも、何人かそういう質問をしています。それに対する村上さんの答えは、大まかに言えば、「変化はしているけれど、これまでと全く違うことをしているのではない」ということのようです。ちなみに、この本は、作者自身がこれまでの作品の意図や位置づけを語っている箇所もあって、イルカくんはとっても面白かったです。

 最後に、イルカくんは、昔の「春樹」に会いたいか? う〜ん、今はまだいいかな。だって、まだ全部読破してないから。

心臓を貫かれて〈上〉

心臓を貫かれて〈上〉

  • 作者: マイケル ギルモア
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1999/10
  • メディア: 文庫

心臓を貫かれて〈下〉

心臓を貫かれて〈下〉

  • 作者: マイケル ギルモア
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1999/10
  • メディア: 文庫


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国境を越える村上春樹、あるいは日中関係の巻。 [村上春樹]

 イルカくんです、こんにちは。

 数日前のニュースで、セルビア・モンテネグロが、セルビアとモンテネグロに分かれることに決まったと言っていました。今度のドイツ大会が、いわば最後のセルビア・モンテネグロ代表になる、とのこと。このセルビア・モンテネグロが入ったグループCが、また予想しがたい! 果たしてセルビア・モンテネグロはグループ・リーグを抜け出して、今大会のダークホースとなれるのか。いや、ダークホースはコートジボワールだっていう説もあるしなぁ。ブツブツ。

 そんなセルビア・モンテネグロで、村上春樹って読まれてるんでしょうかね? ところで、ここ最近、新聞などで、「村上春樹が世界で読まれている」という記事をよく見かける気がします。記事の内容はだいたい、3月に開かれた国際シンポジウム「春樹をめぐる冒険ーー世界は村上文学をどう読むか」の紹介が多いみたいです。イルカくんは、そのシンポジウムにぜひ行きたかったんですけれど、あえなく抽選に外れてしまいました。かわいそうなイルカくん、シクシク。

 ということで、シンポの紹介記事を見ると、村上作品は「デビュー作『風の歌を聴け』から近作『アフターダーク』まで、一貫して日中戦争の記憶が持続している」とあります。また、香港の翻訳者のかたは「日中関係への歴史的こだわりが感じられる」と発言しています(3月30日朝日新聞夕刊)。この点でイルカくんの印象に残るのは、「中国行きのスロウ・ボート」(『中国行きのスロウ・ボート』1983年、中央公論社、所収)という短篇の、とくに二人目の中国人の話です。この作品は『ねじまき鳥クロニクル』(1994〜95年、新潮社)ほどスケールの大きな話ではないし、直接的に日中戦争を扱うものでもなくて、ただ一個人の日常レベルでの日中関係を描いています。もっと言っちゃうと、イルカくんは、この話の中に人間の残虐性を見る気がします。ここに書かれているようなイジメ・意地悪を、われわれは半ば無意識で、つまりは半分は意識して、わざとやってしまうことって、ありうる。いや、じつは忘れてるだけで、過去にもそんな間違いを犯しているのかもしれません……。イルカくんは読んでいてドキッとしてしまいました。

中国行きのスロウ・ボート

中国行きのスロウ・ボート

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1997/04
  • メディア: 文庫


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村上春樹とサッカー、そして旅行記の巻。 [村上春樹]

 イルカくんです、こんにちは。

 いやぁ、楽しみです、ワールド・カップ。イルカくんは、知り合いと予想ゲームをすることになったので、真剣に勝敗のシミュレーションにいそしむ毎日です。いくつも考えるべきトピックがあるので大変です。たとえば「イタリアは大丈夫か?」。イタリアは決勝トーナメント1回戦でブラジルと当たって、準決勝でフランスと当たる可能性が高いんだよなぁ。ブツブツ。

 ところで、村上春樹とサッカーって、あまり関係なさそうです。イルカくんが印象に残るのは、『遠い太鼓』(1990年、講談社)という長篇エッセイです。ほんのひと言だけ、サッカーが登場します。ローマ郊外のヴィラ・トレコリというレジデンシャル・ホテル(ここで『ノルウェイの森』を書き上げた)の部屋から、サッカー場のあるフォロ・オリンピコが見えたとあり、試合のある日は上空に紫色の煙が立ちこめて、初めて見た時は世界に大きな異変が起こったのかと思ったくらいだった、というくだりです。しかし、この煙を春樹さんは「煙草の紫の煙」と書いておられて、そうかタバコかとも思うのですけれど、イルカくんは自然に発煙筒を思い浮かべて満足しています。ちなみに、この「フォロ・オリンピコ」にあるのは何ていうクラブなのでしょうか?(調べようかと少し思ったけれど調べてないです。)

 この『遠い太鼓』は、1986年から89年の間、ギリシア・イタリアに滞在しながら小説や翻訳をコツコツ仕上げつつ綴られたエッセイ、というか旅行記です。イルカくんは、村上春樹の旅行記の中で、これが一番いい本だと思っています。このエッセイには二つの側面があって、外国での見聞を記すという旅行記的な側面と、滞在中に書かれる小説についてふれる側面です。主である旅行記もなかなか良くて好きなのですが、時々、『ノルウェイの森』(1987年、講談社)を書き上げたホテルとか、『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年、講談社)を書いていたローマの家などが出てきて、感慨深いものがあります。また、『ノルウェイの森』が大ベストセラーとなり、同時に自分までもが有名人になってしまい、精神的につらい時期を過ごしたこと。そして、ティム・オブライエンの長篇小説『ニュークリア・エイジ』(1989年、文藝春秋)を翻訳することを通し、回復していったことなど。80年代後半の村上作品(翻訳含め)が、『遠い太鼓』によってつながるように思います。

 ちなみにイルカくんはこの本を、去年の夏休みに沖縄本島に持っていって読みました。その時のことは、またいずれお話しするかもしれません。

遠い太鼓

遠い太鼓

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1990/06
  • メディア: 単行本


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