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村上春樹訳『キャッチャー』雑感。 [村上春樹]

 イルカくんです、こんにちは。

 村上訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)が出たのは2003年の話ですけれど、村上春樹の初期作から読み始めてようやくここまで辿り着いてみると、「とうとう春樹は『キャッチャー』を訳しちゃったか……」という感慨がないでもないです。というのも、たしか、初期のエッセイや短篇なんかで『キャッチャー』の主人公ホールデンの名前が出てきていたから。イルカくんは学生時代に原文で『キャッチャー』を読んで、けっこうホールデンには親近感があったので、村上訳には期待するところがありました。さて、その結果は……。

 本当に悲しいことに、正直いうと今回は、ホールデン・コールフィールドに入りきれませんでした。それは何故なんだろうか? 考えられる理由、1)春樹の訳が悪かった(宿命的な翻訳不可能性)。あるいは、2)イルカくんがインチキな大人になっちまった。う〜む、どっちでしょう?

 1)翻訳の問題でいうと、個人的には、昔から出ている野崎孝訳よりは村上訳の方が格段に良いと思います。この小説は口語的に書かれていて、俗語(1950年代の)もたくさん入っているので、日本語訳も当然口語調になるのは定めだと思うんですが、野崎訳は年代物なので話し言葉の感覚が今とズレています。大昔ちょっとだけ立ち読みしましたが、最初の一文でもう鳥肌が立ったことを覚えています。まあ、その時はイルカくんも上京したてで、東京の話し言葉にぜんぜん慣れてなかったということも大きいと思うので、今読んだらもしかしてスラスラ読み進められるのかもしれませんけれど。

 一方、春樹の訳に対しては拒絶反応もなく、安心してすんなりと入れました。ただ、当然というべきか、訳には若干の春樹テイストもあって、たとえばホールデンが「やれやれ」とか言っちゃうと、それはなんか違うんではないかと思うわけです。これはまあ些細なことではあるんですけれど、そういう細部の作りって、小説世界ではけっこう大切じゃないですか。でも、自分の中で村上訳以外の『キャッチャー』イメージがなければ、村上訳はぜんぜんオッケーなんだと思います。むしろ、村上訳で初めて『キャッチャー』に触れる人がいたら、それはけっこう幸せなことだと思います。要するに、イルカくんの違和感の問題は単純に、前に読んでいたということが大きいのかもしれません。

 2)では次に、時間の経過の問題。今回、村上訳を読むまでは、『キャッチャー』の内容の詳細は、ほとんど忘れていました。覚えていたことは、ホールデンは変化したくないと思っている、変化しない世界を求めているということで、その点がイルカくんとホールデンとの繋がりだったわけです。具体的には、弟アリーのお墓のこと、小学校の壁に「ファック・ユー」という落書きがあったこと、そんな言葉を妹たちに知られてはいけないとホールデンが思っていること、そして博物館のミイラのこと。それ以外はぜんぜん覚えていなかった。

 それで新しく春樹版を読むと、上の記憶以外の箇所については、なんだか、「そんな小さいことでいちいちクヨクヨするなよ」とかホールデンに対し思ってしまったんです。「世の中、そんなことなんか脇に押しやるくらいに飛んでもないこと沢山あるよ」とか思っちゃったんです。それで、過去にたしかに自分のものとしてあった、ホールデンとの繋がりがシュ〜ンとしぼんでしまった気がしました。もし自分がアントリーニ先生だったら、ホールデンになんて話すだろうなんて考える始末。ちょっと寂しい読後感でした。ああ、ホールデンとの個人的な繋がりは、本当に永遠に失われてしまったのか……。

 村上春樹は翻訳刊行後、『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(共著、文春文庫、2003年)を出して、その中で、『キャッチャー』に対する自分の見方を語っています。一つ、彼の主張は、『キャッチャー』は60年代に若者のバイブルとなったが、この小説はけっして若者の反抗の話ではない、ということ。ホールデンはやみくもにエスタブリッシュに反抗しているわけではない、これは事実。村上の言うとおり、これはホールデンの自己の探究の物語です。言葉を借りれば「本当はこの小説の中心的な意味あいは、ホールデン・コールフィールドという一人の男の子の内的葛藤というか、『自己存在をどこにもっていくか』という個人的闘いぶりにあったんじゃなかったのか」ということです。つまり、この本は別に若者に限定された本じゃない。だから、イルカくんも、また時間をおいて読み返してみようと思います。そうすれば、今よりは素直に読めるかもしれない、そんな希望を抱いています。どうかな。

 ちなみに『サリンジャー戦記』には、訳書に契約上掲載できなかった、春樹による訳者解説も収録されています。

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

  • 作者: J.D.サリンジャー
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2003/04/11
  • メディア: 単行本


翻訳夜話2 サリンジャー戦記

翻訳夜話2 サリンジャー戦記

  • 作者: 村上 春樹, 柴田 元幸
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/07/19
  • メディア: 新書


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コメント 4

ゆうこりん

イルカくんさん、こんばんは。
しばらく更新がなかったので、「今頃コツコツと村上本に対峙していらっしゃる
のかしら?」と思っていたら・・ついに「キャッチャー・・」まで!
大変整理された記事です。nice!

大まかなところでは、私もイルカくんさんと同じような感想です。
まず、私も『ライ麦畑・・』を読んだことがある。
主人公は永遠の16歳である。
私はもう(当然)16歳ではなく、『ライ麦・・』の自己探究からは遠く離れた感慨
を持つ、「大人」になってしまっている。
『キャッチャー・・』は村上春樹の内に存在する「村上のためのホールディン」
であると感じる。
自作の「僕」では、表現できない(あるいはしたくない)個人的領域を、この
ホールディンに託しているのではないか・・・と考える。
と、言ったところでしょうか。

でも真実はどうあれ、そして世の評価はどうあれ、
私はこの『キャッチャー・・・』はいい訳本だと思っています。
現代に通じるホールディンの葛藤を、現代に合った感覚で新しく甦らせた。
埋もれそうになった宝が、嵐の風によってまた地表に顔を出した。
そんな気がします。

なんだかんだ言っても、やっぱり村上ファンとしては、
『ライ麦・・』をすっぱり忘れて、純粋に『キャッチャー・・』を楽しみたい
ですけどね!
by ゆうこりん (2006-07-29 22:49) 

イルカくん

ゆうこりんさん、こんにちは。
さっそくお越しいただいて、どうもありがとうございます! 仰るように、村上にとっても『キャッチャー』の存在は個人的に大きいはずだと思うんですけれど、『サリンジャー戦記』での発言を見ると、この小説における文体の重要性にばかり言及して、物語あるいはホールデンに対する入れ込みはそれほどないような話しぶりです。そんなはずないと思うんですけれど、イルカくんの思い違いなのかな。あるいは春樹の照れ隠しなんでしょうか。とにかく、春樹は『キャッチャー』に対してわりにニュートラルな態度をとっていたいんだなと思わされます。

自作との関係でいえば、十代の少年が主人公であるという点において『海辺のカフカ』との相関性がまず思い浮かびます。村上によれば、『カフカ』を書き終えてから『キャッチャー』の訳を始めたとのことですが、それにしても、田村カフカとホールデンって、なんだか全然ちがうタイプですよねぇ。だから、ゆうこりんが言うように、村上にとってホールデンは自作ではあまり書けない人物ではあるんだと思います。

それから、ホールデンの弟妹に対する感情、これは春樹の作品にも共通したものがあるかもなぁと思いました。ふと思い浮かんだのは、『夢で会いましょう』収録の「アスパラガス」と『パン屋再襲撃』収録の「ファミリー・アフェア」です。ただ単に主人公に兄弟がいるってだけなんですけれど、なんか弟妹を庇護しているという感じが似てるかな、と思いました。でも単純に、村上の主人公は一人っ子が多いので、記憶に残っていただけかもしれません。

ではでは、これからも細々とやっていきますので、どうぞヨロシク!
by イルカくん (2006-07-30 18:39) 

鏡 響子

イルカくんさん、こんばんは。
最近、イルカくんさんの記事に触発されて村上訳のキャッチャーを読みはじめた所です。
私が初めて読んだのは、16歳のときでしたが、野崎訳への拒否反応はなく、文字通りはまって数え切れないくらい読み返したので、村上訳をどんな風に読めるか楽しみです。読み終わったら私のブログに読後感を載せる予定でおります。どうぞよろしく。
by 鏡 響子 (2006-08-01 21:02) 

イルカくん

鏡さん、こんにちは。
お越しいただいて、どうもありがとうございます! 勝手なことを書いて、すみません。野崎訳、イルカくんも今度読んでみようと思います。鏡さんの村上訳への感想、どうぞ、思う存分(滅多切りでも?)書いてもらえたらと思います(笑)。楽しみにしています。それでは!
by イルカくん (2006-08-02 00:03) 

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