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加藤周一『羊の歌』『続・羊の歌』 [本]

 一年以上前から下書き状態にしていた記事を、久しぶりに開いてみた。
 いま読んでみると、自分なりにけっこう面白かったので、過去の話題ではあるが、ここに掲載しておきたいと思う。

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 2008年が岩波新書の創刊70周年ということで、『図書』2008年11月号の臨時増刊号で何人かの文筆家が、『羊の歌』をお薦めしていた。それで、初めて、加藤周一を読んだ。

 実に愚かしいことだが、これまで加藤周一については、「読まなくても、おおよそ分かる」などと思いなしていた。「どうせ、岩波文化人の言ってることだ、だいたい想像がつく」と。しかし、である。加藤周一を知ってみると、この人は、ここでわざわざ言うまでもないことなのであるが、あえて僭越ながら言わせてもらうと、たいへんスゴい人物である。本当にビックリするほど貴重な人だと思う。何が貴重かと言うと、もちろん、日本の言論界において洋の東西の学術・文化に通暁した稀有な人物であるというのはさることながら、極私的な意味合いにおいて言うなら、これほど自分がその書いたものに共感できるという著作家はいないのではないか、という感じなのである。

 『羊の歌ーーわが回想』(岩波新書、1968年8月)は、加藤周一の自伝である。ひつじ年生まれということでタイトルは付けられている。『羊の歌』が幼少期から戦争終結まで、『続・羊の歌ーーわが回想』(同、1968年9月)が戦争直後から1960年くらいまでである。自伝と言ったが、思い出の記ではない。言ってみれば思考の記録、のようなものである。たとえば、一高時代の話が出てくるが、よく有りがちな、優等生が仲間と過ごした青春時代を感傷的に振り返るようなものでは全くない。もう全然違う。一高生のいくつかの馬鹿げた風習をはっきりと批判していて、おそらく一高の中で孤立した異色の存在であったのではないかと思われる。

 また、『羊の歌』を読んで特にグサリと来るのは、戦時中、言論統制がしかれる中で、加藤が戦争に浮かれる東京の人々の間にあって、学生仲間とともに戦争への批判を行なっていたことと、冷静に戦局を読んでいたということである。この時代に、このような思考をすることができた人物が日本にいた、ということが驚きである。ここの所は、第2次世界大戦という過去の話ではあるが、妙にリアリティーをもって読まされる。

 思ったのは、社会が閉塞し、言論統制がされるのは、なにも昔の戦争中だけのことではないということだ。社会なんて大きなことを言わなくても、身近なコミュニティーでもありうる。言いたいことが言いにくい雰囲気があったり、自分の本当の意見を隠しておいた方がいいという選択をすることもある。選択とは、ここで自分の意見を言う方が得か、言わない方が得か、という計算であり、表現と立場の維持とを天秤にかけて、後者を取る、ということである。そういう中にあっても、いかに自分を偽らないで、本当のことを言っていくか、ということ。いつも言葉をごまかしていると、いつの間にか自分の考えや意見が無くなってしまうんじゃないだろうかという怖さがある。いつの間にか、自分が自分でなくなって、つまらない人間になってしまいそうな怖さである。

 『続・羊の歌』では、終戦直後の東京の様子と、加藤が医学研究生としてフランスで過ごした日々の思考である。ヨーロッパ各地を経巡り、彼自らの眼で、その背後にある思想にまで思考が及んでいく様子が記される。「中世」がまだ生きていることを発見する。滞在費を工面するためにやっていたフランス語通訳の仕事を通して、日本からやってきた作家や社会運動家と、フランスの作家・運動家との議論の食い違い、根本的な発想の違い、またイギリスでの滞在では、道義と政治とどう関係させるかということを覚える。この辺も非常に面白い。

 そういうことで、夜寝る前に布団の中で読むには、たいへん心地の良い本。このあとは、加藤周一のどの本を読もうかと考え中です。

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 最後の部分は、まだ「考え中」。やはり王道としては『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫、上下)かなと思ったが、現在、『加藤周一自選集』(岩波書店、全10巻)の刊行も始まり、どうしたものかという感じで、しばらくはペンディング、またそのうち気が向いたらと思います。

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