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『1Q84』を読み終えた [村上春樹]

 数日前に、『1Q84』を読み終えた。
 読後抱いたのは、思い切って一言でいってしまうと、失望感であった。

 自らを振り返ってみて、読了直後の自分の感想が、その後もずっと変わらないなどということはない。村上作品をとってみると、たとえば高校生の時に『ノルウェイの森』を読んだ時の感想と、三十代になって読んだ時の感想とは全く異なっている。高校生の時は、その性描写が過激に写ったし、そもそも主人公の学生があまりにノンポリにすぎるように思えた。今でもあまり変わりはないが、その頃は今以上に痛烈にノンポリを害悪だと思っていたから、作品自体に対する評価も否定的だった。ところが、三十代で改めて読み直してみると、高校生の自分にはノンポリに見えたその主人公が、実はノンポリの正反対、すなわち狭い意味でポリティカルであるわけではないが主人公なりに世界の問題を意識し鋭く批判しているということが行間から読めたのである。そもそも、この体験が、村上春樹の全著作を読破してみようと思った発端だった気がする。それゆえ、昨今東アジア地域で村上作品が読まれる際の、スタイリッシュな都会派生活とその孤独感などという読みは、裾野を広げる意味はあっても、どうも真の作品理解とは言えないような気がして仕方ない。

 少し脱線したが、つまり、言いたいのは、読後直後の感想は得てして変わりうる、ということである。読了から今に至る、たった数日の間ですら、感じ方は刻々と変化してきている。ましてや、『1Q84』読本なるものまで登場しているのだから、そんなものをパラパラめくった日には、ぐらぐらと自分の中の印象が揺さぶられて、その他大勢の感想の中に埋もれて雲散霧消してしまうかもしれないし、ある批評の影響を受けてそれに同調してしまうかもしれない。しかし、いや、だからこそ、読後直後のナマな自分の感想をメモしておきたいと思う。できれば一刻も早く。

 以下、極私的覚え書き。

・ 初めのうちは良かった。第1巻は、言葉は悪いが、まるで新聞の三面記事を読むような感覚で「なになに、次は一体どうなるんだ??」という調子で、ぐいぐいとストーリー展開に引き込まれた。細部もいいし、全体のバランスもいい。並行して進められる二つのお話において、あらゆる事柄が一定のリズムでめくるめく語られ、「この本で村上春樹は世界を描ききってしまうのではないか」という、かなり大げさに言えば、怖れみたいなものすら抱いた。

・ 作風、テイストについても、第1巻においてはブレはなかったと思う。つまり、作者は物語を制御しきれている、あるいは、誰か理性を持った者によって物語が管理されている、という感じがあった。つまり、たとえば『ねじまき鳥クロニクル』では、夫婦の話がそのうちにノモンハン事件へと一気に飛躍してしまう感じがあって、途中から何度もテイストが変わっていくのだが、今回はそうした作品の雰囲気、テイストは少なくとも前半においては変わることなく、がっしりと構築されているように思えた。とはいえ、これは良いことなのか、悪いことなのか。テイストの変化は、作品の完成度を左右するか。少なくとも『ねじまき鳥』を読んでいる最中は、そうしたテイストの変化が必然のように感じられたし、そうした言わば不器用なゴツゴツとしたものが作家という通り道をくぐり抜け提示された生まれたての物語なのであり、それこそ「ものがたり」なのだと思える高まりがあった。だからこそ、解決されないナゾが残ろうと、そこには強い魅力があった。しかし、そうした魅力とは異なった、ぶれない魅力というものが、もしかしてこの新しい作品にはあるのかもしれない、と期待した。

・ 本書には、冒頭から暗い部分があり、暴力性と言っていいかもしれない面が織りこまれている。それらの背景として、『アフターダーク』における闇の延長が感じられた。たしか、誰もいない暗い部屋の中に箱が置いてあるような、そういうシーンが何回か描かれていたように思う。このシーンが持っている闇、うす気味悪さ、暴力は、本作品においてどのような着地点を見出すのか、という興味もあった。

・ 第1巻の終わる頃、二つの並行して進むお話に、ある接点が示唆され始めると、がぜん面白くなって、期待が高まる。しかし、第2巻に入り、はっきりと両者が接続されてくると、話のスケールが一気にしぼんで、単なる男女二人の出会いものになってしまった。

・ この本の出版翌日の朝のNHKニュースで、某という評論家が登場し、「本書は言わば、村上春樹のオウム取材の経験から生み出された小説である」という内容のことを話しているのを見た。村上春樹によるオウム取材の結実としては、地下鉄サリン事件被害者やオウム信者へのインタビュー集である『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』がけっこう良かったので、その番組を見て以降、「小説ではオウムという要素は果たしてどうなるのか」、「小説の中で宗教はどのよう描かれるのか」というのが今回自分のこの本に対する最大の関心事となった。しかし、それはこちらの勝手な思い込みだったのかもしれない。つまり、どういうことかと言うと、もしかしてこの作品の中で宗教は自分が期待したほど重要な扱いを受けていないのかもしれない、ということである。というのも、この物語で描かれる宗教とは言ってみればカルト宗教であるが、単に教祖が超能力を持っているということが描かれるのみなのである。超能力を見せられて、これが宗教です、信者を集めてますと言われても、説得力がない、と思う。もちろん、新約聖書を読めば、イエス・キリストだって数々の奇跡を行なったことが知られる。しかし、イエスの奇跡は人を救う奇跡だった、と思う。やみくもにベッドサイドの置き時計を念力で持ち上げたりはしないし、千里眼のように人の心理を見通して言い当てたりもしない。それって、あまりにプリミティブにすぎる。それにまた、そうした教祖を信じる信者たちの信仰の諸相については描写がない。触れずにベールに包むことにより、不気味さを醸し出そうとしているのだと思うけれど、そのせいで、そうした教団が存在するということのリアリティーも今ひとつ湧いてこない。

・ 主人公の男性と、カルト教団の巫女的存在である少女とのセックスが描かれるが、どうも、このセックスを宗教的行為、秘儀のように捉えているフシがあって、この単純さは頂けない。『海辺のカフカ』で、主人公の少年と、想像上の母親が近親相姦する描写があるが、それ以上に単純というか、薄っぺらである。本作に限らないが、春樹作品はセックスに物語の重要な要素を預けすぎるきらいがある。

・ 物語の最後は、結局、三十歳前後の男の自立物語に終わる。これじゃあ、結果は『ダンス・ダンス・ダンス』と同じだ。主人公に共感できることを望むわけではないが、四十間近の読者として見れば、今さら三十男の父親からの自立なるものに付き合わされることほどつまらないことはない。そもそも春樹はなぜいつも若者ばかりを主人公とするのか。なぜ、六十代の人間が、若者ばかりを描くのか。中年や老年を描けないのか。まさか、読者層(購買層)をマーケティングした結果ではないと思うのだけれど。たとえば、春樹が全訳しているレイモンド・カーヴァーだって、ほとんど主人公は中年男性だし、春樹自身もエッセイでは『遠い太鼓』で四十という大台にのぼる境い目の心の動きを如実に記している。また『グレート・ギャッツビー』の訳者あとがきでは、六十に差しかかった作家の切実な焦りが記されてもいる。だから、なぜだろうと思う。

 今は、そのうちまた読み直す機会がやって来て、この読後感を大きく変えてくれることを、期待しています。

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