SSブログ

グレイス・ペイリー『人生のちょっとした煩い』 [村上春樹]

 自分が一番幸せを感じる時について、最近、思いついた。
 あるいは、幸せと言うより、充実を感じる時、と言った方が、ピッタリかもしれない。

 つい2、3日前に気づいたことだけれど、自分がそういう充実感を感じている時というのは、読みたい本がたくさんあるという時かもしれない。つまり、読みたい本がたくさんあって、それらを同時並行的に、時間を見つけて少しずつ読んでいる時期っていうことだ。

 言い換えると、もっと時間があれば、一気に読み終えて、もっとさらに関連の本をたくさん読んでいけるのに、と歯がゆいほどに感じる時は、けっこう自分としては充実しているのかもしれない。

 しかし、まれに「読みたい本がない」という精神状態に、何の理由もなく、ストンと落ち込んでしまうような時もあって、これは困る。もちろん、いつもほんの2日くらいで収まるので、ご心配には及びませんが、けっこうな脱力状態である。

 数週間前も、そこにストンと落ち込み、低空飛行をしていたが、「ダメもとだ」くらいの気持ちで、自分の本棚を眺めてみた。そして、ふと手にしてみたのが、グレイス・ペイリーの短編集『人生のちょっとした煩い』(2005年、文藝春秋)である。どうしてこれが本棚にあるのかというと、村上春樹の翻訳書だからである。

 脱力状態にて本書を手にしてみると、なにか妙にストレートに伝わるものがある。

 村上春樹の訳者あとがきによると、著者ペイリーは、ロシアから移民してきたユダヤ人を両親として、1922年にニューヨーク市に生まれ、ロシア語とイディッシュ語と英語が同じくらいの割合で話されていた地域で育った、ということである。また、小説を書くかたわら、公民権運動家、反戦運動家、フェミニスト、環境保護運動家として先頭に立って活躍したということで、小説以外の仕事が多くて、作品の数は少ない。

 本書に載せられた作品は、どれ一つとして同じ感じはなく、どれも違ったお話である。しかし、何というか、そこにはマイノリティーの視点があるのだと思う。移民2世のユダヤ人で、英語が得意でなく、かつ女性である、ということが、「アメリカ人作家」という枠を取り外した親近感を感じさせるのかもしれない。

 村上春樹は、文体として、ペイリーとレイモンド・カーヴァーとの類似性を述べているのであるけれど、一般読者にはもっと自由な発想が許されていいだろう。ここでは、むしろ作品に描かれる日常性にこそ、両者の類似性を見たいと思う。カーヴァーは、アメリカの労働者階級のオジサンの日常について書いた。ペイリーは同様にオバサンについて書いたのだ。

 特にペイリーの描く風景について、印象に残ったものの一つに、キリスト教社会であるアメリカの地で、ユダヤ人すなわちユダヤ教徒として感じる日常的な違和感があげられる。言わずもがな、ユダヤ教は旧約聖書の世界であり、新約のイエスをキリストとして認めないので、クリスマスを祝うことはしない。しかし、どうしても我が子はアメリカの学校行事の中で、クリスマス・ペイジェントを演じたりするわけだ。その是非を夫婦で議論したりする風景、それが妙に共感させられた。日本で言うなら、さしずめ、公立学校における日の丸・君が代問題ということになるのかもしれない。

 収録作品はそれぞれ特徴的ですので、オススメです。


共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。